昭和56年9月13日 朝の御理解●② ② ② ② ② ③
明渡 孝
御神訓『神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ』
神の嘆きというか、神様の、いわゆるご心痛、心を痛めておられる。そういう心情を感じます。真に道も真の信心も知らん人の哀れさ。だから、信心のある人ならみんな、神様の、それの反対である喜びであるかというと、そうでもない。いわゆる真の道であり、真の信心なんです。
信心頂いておっても、ほんとの助かり得ない、いわゆる過去の宗教による信心というのは、ね、いかにも助かるかのようであって、いよいよぎりぎりのところ助かることのできないというような宗教ばっかりでありました。ね。「神の教えも真の道も知らぬ」ということになりましょう。
信心は頂いておるけれども、真の道ではない。信心は頂いておるけれども、人間が幸せになるための十全の教えではない。ね。ですから、金光教のご信心を頂いておれば、なら神様がお喜び下さるかというと、金光様のご信心を頂いておっても、いわゆる真の道を知らず、ね。ほんとの信心の教えを聞こうとしないならば、やっぱり同じ神様の嘆きである。
●②「合楽のひれいは天地のひれい」と今日頂きました。ね。合楽に真の信心が、真の教えが説かれて、合楽教会が、いうなら発展して行く、繁盛して行くということは、そのまま天地が繁盛して行くことであり、天地の喜びである。天地のひれいである。ね。これがいよいよ広がりに広がっていくということを、神様がどういう思いで願っておられ、期待しておられるかということでございます。●②
●②今朝方、いろいろ私は、お夢を頂いたんですけれども、もう私が、「合楽」という言葉を使うことすら嫌い、という人達がおります。「大坪先生、あなたはもう、合楽、合楽を言い過ぎなさいますよ」と言うて、注意とも悪口とも言わんような感じで言われる人がございます。
そのグループの方達が、合楽理念の研究というて、私の部屋に集まって、ご神前で、あちらのご神前でいっぱいこう、私を中心にして共励をしておられるところを今朝から頂きました。「大坪さん、あんた合楽、合楽ば言い過ぎるばい」と。例えば注意やら悪口やら分からんような意味のこと言われる方達ばっかりなんです。
それで、結論としてどういうことになったかというと、ほんとなことは、ご神徳を頂かな、その一番そこの長たる人が言ってるんです。「ご神徳を頂かなければ、私どもがほんととか、ほんとじゃないとかということは言われんのう」ちゅうて言うておられるようなことでした。●②
●②それからもう一つのお知らせは、それこそ天までも届くような凧上げがあっとります。それを私と若先生が、それを射落とす競争をしておるのである。
まず先に若先生が射りましたら、もう見事に当たって、それがヒラヒラと落ちてくるところでした。それから次に私がまた、射りましたら、もうほんとに、見事にそれが当たって落ちておるところであった。けれども賞は、先にされた若先生の方にというて、まあ何か賞を受けておるというお知らせであった。
どういうことだろうかと、私は、まあ思わせて頂いたんですけれども、今度、九月三日の婦人大会が、婦人大会をなさるようになって五回目、五周年記念にあたる。それから、今度は「五周年記念」と銘打っての婦人大会になるらしい。
それで、今度会長に選ばれました綾部さんがここでお届けをされましたんですけれども、「今度は、講師を若先生にお願いしたい」という願いであった。「うん、そりゃ良かでしょうね」と。そこであの、会のいうならテーマのようなものを頂きたいということでございましたから、「若先生が講師をするなら、若先生からそのテーマを頂いたらいいでしょう」と言うておりましたが、●② ●②もう綾部さんが下がられると同時に頂いたのが、あの傘でした。傘のお知らせでした。
それでまあ、結局「不平不足のない」ね。傘と言や安心と言われる、心が安心であれば、ね、不平不足も出るはずはありません。ですから、「不平不足のない信心生活を目指して」というなことはどうだろうかと。だんだん、そのことを私はありがたいなぁと思いよったら、その時の会合に、メンバーの方達が集まっておられて、そのことが決まった。ね。「不平不足のない信心生活を目指して」お互いいっぱい、いっぱいというが、やっぱりあるわけ。ね。不平もありゃ、不足もありゃ、また思いもするのである。
けれども、それのない信心を目指して行こうというのである。もう特に婦人の方達が、そういう心の状態を目指していかれたら、家の中はいよいよ繁盛するでしょうね。グズグズ言う、ガタガタ言わん。もう一切がありがたい、ありがたいで受けていけれるような中心になられる方達が、そういう、まあひとつの目当てというものを頂いて、今度の会はまあ開かれるわけですが。まあ何回もいろいろな具体策を練られる会があっております。●②
私はあの、今度の婦人大会というのは、のことであろうと今日は思うた。ね。いうならば、若先生が今度は講師におかげを頂いて、いうならば、当てることができる。当てるということは当たる。ね。大受けに受けたといったような時に使う。ね。そりゃ私のも、やっぱその、見事に当たったけれども、やっぱ一番始めのほうにしたのは若先生であった。
というような、ははあ、今度の婦人大会は、今までとは違った、ひとつの勢いをもって開かれることだろうと。しかもその、願いとする芯が素晴らしい。難しいこう、気張ったようなものでは、とうていそれに取り組みもできないような感じの、教団的なこととか、百年祭を目指してとかとこう言うけれども、ね。一番、そりゃ教団のこともありゃ、百年祭目指すことも要るけれども、まずは信心の稽古が、「不平不足のない信心生活を目指して」というような人達が、百年祭を目指してであり、金光教団のことを思う、祈りでなからなければいけませんもんね。そういう意味合いで、素晴らしいスローガンであるというふうに思うんです。ね。
だから、それが、なら当てるということ。今度の婦人大会は当てた、というようなおかげになってくるということは、そのまま合楽のごひれいだけでなく、天地のひれいということになるのですから、どうでも一人でも二人でも多くの人が参加して、ひとつその、神様の願いに応えまつらないけんなということを思いました。
●②次に頂いたのは、やっぱそれに関連したことであろうか、とこう思ったんですけれども。あるまあ、割烹食堂、割烹があるところで、岩井千恵子先生の知った人がそこで働いておるというので、そこで私に食事をさして下さろうとこういうのである。それが私は、そんなこと、そんなものあるかないか知りませんけれども、普通鯛の茶漬けなんかっていうのがね、いたしますが、鯛の茶漬けじゃなくて、カニの茶漬けと。それに鯛のデンプが、デンプというですかね、あれがかけてあって、そのお米の白いこと、それこそ光ってるようなお米です。
それがこう、大きな丼に盛ってあって、その上にカニが、それでデンプがこうやって。ところが、こげなカニの茶漬けなんて食べたことないから、どげんして食べるじゃろうかて言ったら、千恵子先生の友達というのが、私のには、されなかったけれども、それを全部「こんなふうにして頂くんですよ」と言うて、ヤクミやら何やらいろいろも、こうむしってくれて、そして、こうお茶をかけて、「こんなふうにして召し上がって下さい」と言うておるところで目が覚めた。どういうことだろうかと。
その岩井千恵子ということが、普通、先生のは、「岩」という字ですもんね、石の「岩」ですけれども。私は、お祝いの「祝い」と頂いたですね。千恵子っちゅうのは、千の恵みと書いてあります。●②ね。
まあ今度の婦人大会に懸けられたということでもあろうが、それこそあのまあ、「おめでとうございます」というほどしのごひれい。そのカニの茶漬けというのが私は、カニは、横ばいをいたします。けれども、あれは横ばいではなくて、カニそのものは、まともに、いうなら歩いておるわけです。カニが前の方やってこうこうやってするなら、もうかえって気色の悪かでしょうが。やっぱカニはこうやって、それがまともなんです。カニにとっては。
それを、過去宗教はですね、そういうことは、横ばいだ間違いだというふうに説いてきたわけですね。カニはもう横ばいだと。合楽の信心は横ばいだと。「人間が人間らしゅう生きる手立てを」などというと、今までお粗末と思うておった、ご無礼というて思うておったことにでも、御の字を付けて頂く生き方といったようなね、説かれますから、いかにも横ばい的な、いうなら発言のようですけれども、それが実を言うたらほんとうなのだ。
人間が人間らしゅう生きるということは、カニは、やはり横に這うのが当たり前であるように、人間は、各生きるのが本当だということなんです。というふうに、私は今日、真っ白い光るようなご飯が非常に印象的でしたが。それにカニの茶漬けを頂いて、そこになら、祝い(岩井)千恵子の大みかげを頂く。
そして、今日の御神訓を頂いてです、また、今日ご神前で頂きました。合楽のひれいは神のひれい。●③合楽の、いうならば助かりこそが、本当の意味においての今日の御理解である真の信心であり、いうならば、「信心の教えも真の道も」とあるが、いわゆるほんとの信心の教えというのは、ね、まさしく合楽理念だということであります。そして、合楽理念に基づく生き方こそ、間違いなく真の道だということであります。
真の道を歩くから、真のおかげも、心に真の頂ける。なるほど、この世には、不平も不足も言うことはない、「一切神愛」と説く合楽理念。なるほど、この理念を広げて行くということが、神様の、ね、喜びでもあろう、ね、天地のひれいでもあろうということになります。●③
それを引っくり返すと、ね、それが神の嘆きなるぞということになる。なら、信心しとりますから、神様に喜んでもらってるということにはならない。ね。ほんとの教えを頂いてない。ほんとの道を歩いてないならば、やはり神様は、せっかくご縁を頂いて、真の道を歩かないというならば、神様をやっぱり嘆かせることになります。
今日は、まあ十三日ですから、取り分け合楽では大事にする、神願成就の日として、ね。だから、神願成就がただいま今日頂きますような一線上に出るということ。信心のすべてが。
そこにはね、今まで合楽の信心を「合楽、合楽」と言い過ぎる、と言うておった人達でも、これは合楽理念の研究しにゃいけんな、というふうに気付かせれるほどしのおかげを頂くためには、合楽自体が、いよいよもっともっとおかげを受けなければならんということになります。それこそ、祝い(岩井)千恵子のおかげを頂かせて頂かなければなりません。ね。
そういう意味で、私は今度の、まあ今度のことに限らんのですけれども、五周年の婦人大会に神様も期待しておられるということを感じます。そして、おそらくは、いわゆる若先生を講師にしたということは、間違いではなかった。おそらく当てることだろうというふうに思います。ね。
一人でも多くの方達が参加するということは、そのまま今日の十三日じゃありませんけれども、神願が成就していくということになります。神様を嘆かせるのではなくて、神様に喜んでもらえれる。信心とは、そういう信心を言うのではなかろうか。
昨日の朝の御理解に、もしあなたに、「金光教とはあなたにとって何ですか」と問いたら、みなさんどう答えますか。「それはあなた、おかげを頂きますから」という人もまだあるでしょう。ね。それこそ「信心は命です」という人もあるでしょう。ね。
それをもし大坪総一郎、私に問われたら、私は、「私にとって信心は、命以上と答えるというお話をいたしましたが。
昨日は、美登里会でみなさんの、まあ素晴らしい発表を聞かして頂いた中に、ここの合楽の田中さんが発表しておられましたが、今度あちらのお母さんが亡くなられまして、あちら養母なんですね。それで田中さんが子宮ガンで入院しておられましたが、もう医者が「苦しまんならんはず」と言われるのが苦しがられなかった。それも、亡くなられる一・二ヶ月前に、お母さんのことをお届けされた時に、親と名が付きゃ親だから、これはまあ、家族中の者に言うても分からんなら、信心のあるあなただけでも、本気でお母さんの喜びなさる信心、喜びなさる御用ができにゃいけませんよ、というて、本気で填まって、病院に介抱にもいかれたし、もうそれこそ、私のごと身寄りも何もない者がどげな死に方をするじゃろうか、と思いよったら、こげな手篤い看病を受けてありがたい、ちゅうて、毎日毎日涙を流して喜ばれたということですね。その義理の仲なもんですからね。
それがもう、それこそ、痛みも苦しみもない安らかなお国替えであったということを聞かして頂きましたが、もうほんとに私は、この信心を頂いておるということ、もうひとつ、信心がなかったらどういうその、母を送ったことになっただろうか、と言うて喜んでおられますが。
昨日田中さんが、もし私に、「田中さん、あんたにとって金光教とは」と言われたら、「私の生きがいです」と答えるとこう言われました。だから、いろんなことを生きがいにしとる人がありますよね。(しんどうらく?)何かを私の生きがいという人がたくさんありますよね。
けれども、ほんとに信心そのものが、私の生きがいであるという時に、ならより真実なもの、より真実なことへと、私は進んで行く、分かって行くところの精進がなされてくるだろうと思います。ね。
「信心は私の生きがいです」と言えるような信心を頂いてです、信心をいよいよ極めていく。合楽のごひれいはそのまま天地のひれい。そのまま天地の親神様の喜びだということでございますから、ね。そういう、いうなら信心も、そういう軌道に乗っての信心でなからなければいけない。真の信心、真の教えを頂いておるとは言えないと思いますね。どうぞ。